11/2 死ぬとは、天に帰ること。

私にとって11/2とは特別な日で、

20年以上前、小学3年生のときに父が亡くなった日なんです。

 

以前から何度か書いていますが

私の家はみんなカトリック(キリスト教)で

父に至ってはカトリックを研究していた宗教学者で

昔は毎週日曜日に教会に行っていて、今も年に数回は必ず行きます。

カトリックとは言ってもライトな、どちらかというとカトリック、というレベルなのですが

特に誰か身の回りの人が亡くなるとか

クリスマスや復活祭(イースター)の時期になると

そういえば私ってカトリックだったなぁと思い出します。

 

父が亡くなったとき、

葬儀やら何やらはもちろんカトリックの教会で行われ

たくさんの方が父と残された私たちの為に祈ってくれました。

その会の中で、とても気になっていた言葉があります。

それは「帰天」という言葉です。

 

カトリックでは亡くなることを「帰天」と言います。

天に帰る。

人が死ぬということは単純に喪失や終わりを意味するのではなく

むしろ栄光としての側面があるようなのです。

父が死んで私は悲しかったけれど

教会では父の「帰天」を苦しいこととしてではなく

「神様、こちらから天国に1人行きましたよ!よろしくね!」というようなイメージでの祈りが捧げられていて(当時私はそう感じました)

何となくそんな気がしたというか

死ぬっていうのは終わりではなくて

あくまでこちらの世界から天に帰ることなんだなぁと思った覚えがあります。

 

「帰る」っていいよね!

行くんじゃなくて、帰るの!

死ぬってそういうことなのかもしれません。

死んだことないから、わかりませんけど。

 

近年祖母が死んだときも、

ペットの猫、チャトが死んだときも、

天に帰っちゃった、という感じがしました。

 

肉体がないことはやっぱり、寂しく感じることもあるけれど。

死ぬっていうのはちょっと大掛かりな引っ越しみたいなもので

その人の住む場所が変わったってことなのかな、と。

しかも、この世界より神様に近い、素敵な場所に。

世界中のどこに住んでいても電話で話せるみたいに

亡くなった人とはいつでも通じ合えるような気がしています。

 

私自身はまだまだ全然、死ぬことをリアルに想像できません。

少なくともあと50年、80歳過ぎまでは

余裕で生きるだろうと思い込んでいます。

だけどそんなの、わかりませんよね。

明日死なない保証は誰にもありません。

ニコニコ笑って死にたいな!

残された人たちが笑っていられるようにしたいな!と

どんな風に死にたいかについて思いを巡らせた父の命日。

 

まだまだ生きます。

執筆者:MIKA TANAKA